五島清原氏

 松浦氏以前に五島列島を治めていたという清原氏についてメモしておきます。

 

 「青方文書」安貞二年(1228)三月十三日関東裁許状案では、平安時代末期の五島を巡る人間関係の言及があります。この裁許状案は、肥前国宇野御厨内小値賀嶋の地頭職の領有権を巡って峯持と山城固とが相論したときのものです。

 それによれば、源久の嫡男である源直は、五島列島内の小値賀嶋の本領主であった清原是包(これかね)の姪である清原三子(さんのこ)を妻にしていたが、仁平元年(1151)ごろ、清原是包が狼藉を好み、住民に煩をなし、平戸に入港していた高麗の船から荷物を奪う狼藉を働いたため、宇野御厨の領家から勘当され、所領所職を没収されたそうです。そして、清原是包の姪の夫である源直が弁済使に補任され、小値賀嶋浦部を知行することになったそうです。

 

 一方、「川上神社文書」承安3年(1173) 2月14日清原兼平畑地去渡状案によれば、肥前国在庁官人として清原兼弘の子に、権介清原真人兼平、その女に清原太子らがみえます。この清原氏と清原是包(これかね)の直接的関係は示されていませんが、兼(かね)を通字としていることから、同族ではないかと考えられているようです。中世の漢字の当て方はブレブレですから。

 しかし「青方文書」には是包にルビがふってあったんでしょうか?ちょっと気になるところです。

 

参考文献

[1] 瀬野精一郎「松浦党研究とその軌跡」青史出版(2010)

[2] 長崎県新魚目町教育委員会「魚目城 確認調査報告書」新魚目町文化財調査報告書第1集(1984)