ミナンカバウの王祖

 18世紀後半にマースデンがジョホール人から聴収したミナンカバウの王祖についてメモしておきます。

 

 イスカンダルは海に潜り、海の王と結婚したと言います。彼はそれにより三人の息子を設け、彼らが成人すると母は三人を父のもとに送り届けました。父は彼らに王冠を授け、彼らが落ち着くべき王国を探すように命じました。

 三人がシンガプラ海峡に着いたとき、三人は誰の頭に冠が合うのかを試すことにしました。長男がまず試みたましたが、冠を頭まで上げられませんでした。次男も同じでした。三男がもう少しの所で冠をかぶれそうなとき、冠が手から海に落ちてしまいました。そこで長男は西に行き、ルム(ローマ)の王に、次男は東に行き、中国の王になりました。三男はジョホールに留まり、ジョホールの王となりました。

 そのころプルチャ島(スマトラ島)はまだ海中から上がっていませんでした。島が現れ始めた時、ジョホール王は釣りをしていて、島がシ・カティムノという大蛇によって潰れそうになっているのを見ました。王はシマンダンギリという剣で大蛇を倒したが、剣には190の欠け目ができてしまいました。島はこうして現れることができ、王は島の火山の麓に行って住みつき、その子孫がミナンカバウの王となりました。

 

 マラッカの建国神話(マラッカ王国の王祖 - クランクラン)と似ています。ただ『ムラユ王統記』では次男がミナンカバウの王となりましたが、この民話では三男の血統がミナンカバウの王となっています。末子成功譚というやつでしょうか?

 ローマの王というのは、オスマン帝国のカリフだそうです。

 大蛇「シ・カティムノ」を倒した「シマンダンギリ」という剣ですが、「島ノ段切」みたいで何だか日本語っぽいですね。ミナンカバウのパガルユン王家は、家宝としてシマンダンギリを継承しているそうです。

 

参考文献

[1] 弘末雅士「東南アジアの建国神話」山川出版社(2003)