李朝実録にみる兀狄哈(Udikai)の獣婚譚

兀狄哈の習俗で、女性は皆鈴をつけていると言います。

戊午の年、3人の娘が白樺の樹皮をとりに山に入りました。

一人は無事に家に帰りましたが、残りの二人は帰りませんでした。

その年の11月、ある狩人がその山に入り、熊を仕止めました。

すると、大木の空洞から鈴の音が聞こえるので、木を倒して覗いてみたところ、二人の女がそれぞれ子供を抱いていました。

狩人が事情を尋ねると、去る5月に白樺の皮をとりに山に入ったところ、路に迷ってしまって家に帰れなくなり、雄の熊がやってきて交わることを強制したため、子供が生まれてしまった、と答えました。

その子供の顔は半ば熊に似ていました。
狩人はその子供を殺し、二人の娘を連れて帰りました。

 

李朝実録』世宗21年(1438年)7月戊申の条

「又言、干知介之俗、女皆侃鈴。歳戊午五月、有女三人因採樺入山、一女還家、二女不還、是年十一月、猟者入山捕熊、聞木空中有鈴声、
折木視之、二女皆携児。問其由、答云、去五月、因採樺到山間迷路、不得還家、伍雄熊脅與交、各生児子。
其児面半似熊形。其人殺其児、率二女而還。」

 

参考文献

[1] 佐々木史郎「狩猟文化からみた満州東北部住民の系譜ー15世紀から17世紀ー」第5回北方民族文化シンポジウム (1991)

 

ホトンの最初の七姓

アラシャン(阿拉善)地域に住むモンゴル族ムスリムは、ホトン人と呼ばれています。アラシャンとはアラク・シャン、すなわち「まだらの山」を意味し、現代の内モンゴル自治区の最西端にあります。このホトン人の姓をまとめました。

ホトン人についての20世紀の報告では、それぞれ差異がありますが、以下の特徴は共通します。

①先祖は哈密からアラシャンに移住してきたテュルク系

②言語はモンゴル化してもイスラム信仰は維持

 

2002年の楊海英(大野旭)の実地調査では、ホトン人には七つの父系親族集団オボクがあることが報告されています。現地のモンゴル人やホトン人は、「ホトンの最初の七姓」と表現するそうです。

 

①アンディジャーン

アンディジャーンは、フェルガナ盆地東部の都市で、漢語では安集延と表記します。コーカンド・ハーン国から新疆に来た商人たちはアンディジャーン人と呼ばれていました。アンディジャーンの冒頭の音から、漢姓では安姓と名乗ります。

 

②バルグート

バルグートは、モンゴルの古くからの部族名です。漢姓では候姓や胡姓を名乗りますが、由来は不明です。

 

ジュンガル

ジュンガル・ハーン国との関係性は不明ですが、「ジュンガル」はモンゴル語で「左翼」を意味するジェギュン・ガルに由来するので、漢姓は左姓を名乗っています。

 

④キルガス

キルガスはキルギスのことだと考えられます。キルギスモンゴル語のキルガホ(断つ)に比定し、同音の段におきかえて漢姓としています。

 

⑤カルカス

漢姓は賀姓や何姓を名乗りますが、詳細は不明です。

 

⑥ホイト

ホイトは、モンゴルの古くからの部族名です。ホイトはテュルク語のホイ(複数形ホイト)が羊を意味するので、同音の楊を漢姓としています。

 

⑦セイラン

漢姓は謝姓を名乗りますが、詳細は不明です。

 

参考文献

[1] 楊海英「モンゴルとイスラーム的中国 -民族形成をたどる歴史人類学紀行」風響社 (2007)

 

 

キルギス人形成の40部族

キルギスの国旗は、赤字に黄色の太陽であり、太陽は40本の光線を持っています。これは、キルギス人の英雄マナスが赤色の旗の下に40部族を統合したことでキルギス人が形成されたとの伝説に基づくものです。ただ、『マナス英雄叙事詩』に具体的な40部族について記載はありません。『マナス英雄叙事詩』には40という数字が何度もでてくるので、縁起がいい「たくさん」という意味なだけかもしれません。

長崎代官高木家

長崎代官は、天正15年(1587)に豊臣秀吉鍋島直茂への任命から始まります。その後の江戸時代では、村山家、末次家が長崎代官に任じられましたが、それぞれキリシタン問題、密貿易で失脚し、町年寄であった高木家の六代目作右衛門忠与が任じられ、幕末まで高木作右衛門家が世襲しました。町年寄高木家は別家が継いでいます。

高木家の祖である肥前国住人高木弾正忠は、刀伊の撃退で活躍した大宰権帥藤原隆家を祖とする肥前高木氏と関係がありそうですが、どうなんでしょう?

 

長崎の町年寄の由緒

町年寄は、長崎奉行所が公務執行のために地元で任命した役人の筆頭です。町年寄を世襲した家系のうち、幕末まで存続した六家の由緒をまとめました。

 

①後藤家

先祖代々肥前国杵島郡の領主で後藤中務大輔の嫡男後藤庄左衛門が永禄の頃、長崎へ来住し長崎最初の頭人となり、文禄元年(1592)町年寄となる。

 

②高木家

先祖代々肥前国高木の住人で高木弾正忠の嫡子後藤作右衛門が永禄の頃、長崎へ来住し長崎最初の頭人となり、文禄元年(1592)町年寄となる。

 

③高嶋家

先祖代々近江国の住人で高嶋河内守の子高嶋八郎兵衛が長崎へ来住し、その嫡子高嶋四郎兵衛が長崎最初の頭人となり、文禄元年(1592)町年寄となる。

 

薬師寺

先祖代々豊後国の大友家に属し、薬師寺久左衛門までは筑前国に知行していたが、浪人となった後は長崎へ来住し、その子薬師寺久左衛門は磨屋町乙名、その子薬師寺宇右衛門は磨屋町乙名のあと常行司となり、その子薬師寺又三郎が元禄十年(1697)町年寄となる。

 

⑤久松家

肥前国大村の久松新兵衛が長崎へ来住していたが、実子がなく、讃州丸亀の城主生駒帯刀の末子堀尾作十郎を養子としたが、作十郎にも実子がなく、高木作右衛門の子を養子にし、久松善兵衛と改め、善兵衛は元禄十年(1697)常行司、元禄十二年(1699)町年寄となる。

 

⑥福田家

肥後国小西家に仕え、福田帯刀まで肥後国に知行していたが、その子福田伝兵衛は浪人となった後は長崎へ来住し豊後町乙名に任じられ、七左衛門、九郎左衛門と豊後町乙名を世襲し、伝次兵衛も豊後町乙名のあと常行司となり、元禄十二年(1699)町年寄となる。

 

参考文献

[1] 籏崎好紀「長崎地役人総覧」長崎文献者 (2012)