マラッカ王国の王祖

17世紀に編纂された『ムラユ王統記』に記載がある、マラッカ王国の王祖についてメモしておきます。

 

『ムラユ王統記』曰く、マケドニアアレクサンダー大王は東方へ遠征し、インドの王ラジャ・キダ・ヒンディと闘い、これを制しました。大王はラジャ・キダ・ヒンディの娘と結婚し、息子を設けました。

その子孫の一人がラジャ・チュランで、全インドを勢力下におさめ、さらに中国を征服するために東方へ遠征しました。ラジャ・チュランはシンガポールまで進軍しましたが、中国制服を阻止しようとした中国人から中国がまだ遥かに遠いことを聞き、中国遠征を取りやめました。その代わりにガラス箱を作らせ、それに入って海に潜ったところ、海の底には海中の王国があり、海の王に出会いました。ラジャ・チュランは自らが地上の王であることを告げると、海の王に迎えられ、その娘と結婚し、三人の息子を設けました。

成長した息子たちは、スマトラ島パレンバンに降臨し、パレンバンの首長ドゥマン・レバル・ダウンは、アレクサンダー大王の子孫を称する三人を迎えいれました。やがて噂を聞き付けた人々が表敬訪問し、長男はミナンカバウの王に、次男はタンジュンプラの王に迎えられました。三男はドゥマン・レバル・ダウンにパレンバンの王に迎えられ、スリ・トリ・ブアナ(三界(水界・地上界・天界)の王)と称しました。

 スリ・トリ・ブアナは海辺に町を作りたかったため、ドゥマン・レバル・ダウンの力を借りて、ビンタン島に渡りました。ビンタン島の女王はスリ・トリ・ブアナを養子として迎えました。スリ・トリ・ブアナは女王の力を借りて、さらに海峡を渡ってシンガポールに至ろうとしました。海は嵐が起きて荒れていましたが、海の王の孫であるスリ・トリ・ブアナは荒ぶる海を静め、無事にシンガポールへ上陸し、その地に町を作りました。その後、スリ・トリ・ブアナの曾孫がマラッカに移って作ったのがマラッカ王国だそうです。

 

水界・地上界要素は分かるんですが、天界要素は分かりません。

同じく海の王の子孫である神武天皇日本武尊に比べると、ホイホイ海を渡れていいですね。

 

参考文献

[1] 弘末雅士「東南アジアの建国神話」山川出版社(2003)

阿蘭陀通詞家25姓

阿蘭陀通詞の由緒諸としてまとまっている物は、

(1)阿蘭陀通詞由緒書 明和八年書上

(2)阿蘭陀通詞由緒書 享和二年書上

(3)長崎通詞由緒書

があり、『長崎県史』「史料編第四」に収まっています。この3つの由緒書からは15姓23家が拾えます。

①今村

②石橋

③名村

④吉雄

⑤楢林

⑥堀

⑦西

⑧茂

⑨加福

⑩本木

⑪志築

⑫馬田

⑬三島

⑭中山

⑮横山

 

『阿蘭陀通詞起請文』の署名には、上記15姓以外に6姓あります。

⑯馬場

⑰岩瀬

⑱末永

⑲小川

⑳森山

㉑荒木

 

『奉行蘭館長蘭通詞控』の署名には、上記21姓以外に4姓あります。

㉒富永

㉓中島

㉔立石

㉕品川

 

他にも、幕末期の諸記録から名前を引っ張ってくることはできますが、[1]ではこの25姓が由緒のある阿蘭陀通詞家としています。

 

 参考文献

[1] 片桐一男「阿蘭陀通詞の研究」吉川弘文館 (1985)

パサイ王国の王祖

13世紀、マレー半島の南にあるスマトラ島北部(マラッカより東)にパサイという港市国家が生まれました。この建国神話は、14世紀に原型ができたという『パサイ王国物語』に記載があります(現存する写本は18世紀のもの)。『パサイ王国物語』はマレー語による歴史叙述としては最古のものとなります。この『パサイ王国物語』の王祖についてメモしておきます。

 

昔々、北スマトラスムルランガに、ラジャ・ムハンマドとラジャ・アフマッドの兄弟がおりました。

ある日、ラジャ・ムハンマドは家来たちと森を切り開きにでかけました。すると、森の中に大きな竹がありました。その竹は、家来たちが刈っても刈ってもすぐに伸びてくる不思議な竹でした。ラジャ・ムハンマドがその竹を刈り取ったところ、竹株の真ん中に大きな筍があり、そこから可愛い女の子が出てきました。ラジャ・ムハンマドはその子を家に連れて帰り、「竹姫」と名づけ、大事に育てました。「竹姫」はすくすくと育ち、日ごとに可愛さをましていきました。

一方、ラジャ・アフマッドは森に狩りをしに出かけました。すると、森の奥で修業中の一人の老人に出会いました。その老人がただものでないと感じたラジャ・アフマッドは、兄のように自分も子供が欲しいことを伝えました。すると老人は、象に育てられている男の子がいることを話しました。話をきいたラジャ・アフマッドが待っていると、そこに大きな象が頭に男の子を乗せて、水浴びにやってきました。ラジャ・アフマッドは、いったん家に帰り、家来をつれて森にやって来て、象が水浴びをしているすきに男の子を奪い取ることができました。その子は見目麗しく、ムラ・ガジャと名付けられました。ラジャ・アフマッドは、将来ムラ・ガジャと「竹姫」を結婚させたいと、ラジャ・ムハンマドに申し入れました。

この象に育てられた男の子と竹姫は、成長すると結婚しました。その間に生まれたムラ・シルが、のちの初代パサイ王です。

 

参考文献[1]では「竹姫」となっています、「竹姫」はマレーシア語のWikipediaではPuteri Betung(Puteri:王女、Betung:竹)になっています。ムラ・ガジャ(Merah:赤、Gajah:象)のように固有名詞にしなかったのは、かぐや姫と重ねさせて興味を引くためでしょうか?

 

参考文献

[1] 弘末雅士「東南アジアの建国神話」山川出版社(2003)

 

李朝実録にみる兀狄哈(Udikai)の獣婚譚

兀狄哈の習俗で、女性は皆鈴をつけていると言います。

戊午の年、3人の娘が白樺の樹皮をとりに山に入りました。

一人は無事に家に帰りましたが、残りの二人は帰りませんでした。

その年の11月、ある狩人がその山に入り、熊を仕止めました。

すると、大木の空洞から鈴の音が聞こえるので、木を倒して覗いてみたところ、二人の女がそれぞれ子供を抱いていました。

狩人が事情を尋ねると、去る5月に白樺の皮をとりに山に入ったところ、路に迷ってしまって家に帰れなくなり、雄の熊がやってきて交わることを強制したため、子供が生まれてしまった、と答えました。

その子供の顔は半ば熊に似ていました。
狩人はその子供を殺し、二人の娘を連れて帰りました。

 

李朝実録』世宗21年(1438年)7月戊申の条

「又言、干知介之俗、女皆侃鈴。歳戊午五月、有女三人因採樺入山、一女還家、二女不還、是年十一月、猟者入山捕熊、聞木空中有鈴声、
折木視之、二女皆携児。問其由、答云、去五月、因採樺到山間迷路、不得還家、伍雄熊脅與交、各生児子。
其児面半似熊形。其人殺其児、率二女而還。」

 

参考文献

[1] 佐々木史郎「狩猟文化からみた満州東北部住民の系譜ー15世紀から17世紀ー」第5回北方民族文化シンポジウム (1991)

 

ホトンの最初の七姓

アラシャン(阿拉善)地域に住むモンゴル族ムスリムは、ホトン人と呼ばれています。アラシャンとはアラク・シャン、すなわち「まだらの山」を意味し、現代の内モンゴル自治区の最西端にあります。このホトン人の姓をまとめました。

ホトン人についての20世紀の報告では、それぞれ差異がありますが、以下の特徴は共通します。

①先祖は哈密からアラシャンに移住してきたテュルク系

②言語はモンゴル化してもイスラム信仰は維持

 

2002年の楊海英(大野旭)の実地調査では、ホトン人には七つの父系親族集団オボクがあることが報告されています。現地のモンゴル人やホトン人は、「ホトンの最初の七姓」と表現するそうです。

 

①アンディジャーン

アンディジャーンは、フェルガナ盆地東部の都市で、漢語では安集延と表記します。コーカンド・ハーン国から新疆に来た商人たちはアンディジャーン人と呼ばれていました。アンディジャーンの冒頭の音から、漢姓では安姓と名乗ります。

 

②バルグート

バルグートは、モンゴルの古くからの部族名です。漢姓では候姓や胡姓を名乗りますが、由来は不明です。

 

ジュンガル

ジュンガル・ハーン国との関係性は不明ですが、「ジュンガル」はモンゴル語で「左翼」を意味するジェギュン・ガルに由来するので、漢姓は左姓を名乗っています。

 

④キルガス

キルガスはキルギスのことだと考えられます。キルギスモンゴル語のキルガホ(断つ)に比定し、同音の段におきかえて漢姓としています。

 

⑤カルカス

漢姓は賀姓や何姓を名乗りますが、詳細は不明です。

 

⑥ホイト

ホイトは、モンゴルの古くからの部族名です。ホイトはテュルク語のホイ(複数形ホイト)が羊を意味するので、同音の楊を漢姓としています。

 

⑦セイラン

漢姓は謝姓を名乗りますが、詳細は不明です。

 

参考文献

[1] 楊海英「モンゴルとイスラーム的中国 -民族形成をたどる歴史人類学紀行」風響社 (2007)

 

 

キルギス人形成の40部族

キルギスの国旗は、赤字に黄色の太陽であり、太陽は40本の光線を持っています。これは、キルギス人の英雄マナスが赤色の旗の下に40部族を統合したことでキルギス人が形成されたとの伝説に基づくものです。ただ、『マナス英雄叙事詩』に具体的な40部族について記載はありません。『マナス英雄叙事詩』には40という数字が何度もでてくるので、縁起がいい「たくさん」という意味なだけかもしれません。

長崎代官高木家

長崎代官は、天正15年(1587)に豊臣秀吉鍋島直茂への任命から始まります。その後の江戸時代では、村山家、末次家が長崎代官に任じられましたが、それぞれキリシタン問題、密貿易で失脚し、町年寄であった高木家の六代目作右衛門忠与が任じられ、幕末まで高木作右衛門家が世襲しました。町年寄高木家は別家が継いでいます。

高木家の祖である肥前国住人高木弾正忠は、刀伊の撃退で活躍した大宰権帥藤原隆家を祖とする肥前高木氏と関係がありそうですが、どうなんでしょう?