吐蕃の官位十二階

 吐蕃の官位についてメモします。吐蕃の官位は、620年代にソンツェン王により設けられ、以下のように5段ないし6段を大小に分けていました。

①大瑟瑟、②小瑟瑟、③大金、④小金、⑤大金塗銀上、⑥小金塗銀上、⑦大銀、⑧小銀、⑨大銅、⑩小銅(『通典』)

①大トルコ石、②小トルコ石、③大金、④小金、⑤大オパール、⑥小オパール、⑦大銀、⑧小銀、⑨大銅、⑩小銅、⑪大鉄、⑫小鉄(後代の所伝)

①大トルコ石、②小トルコ石、③大金、④小金、⑤大オパール、⑥小オパール、⑦大銀、⑧小銀、⑨大黄銅、⑩小黄銅、⑪大鉄、⑫小鉄(敦煌文献)

 これは日本の冠位十二階と良く似ています。日本の冠位十二階も

①大徳、②小徳、③大仁、④小仁、⑤大礼、⑥小礼、⑦大信、⑧小信、⑨大義、⑩小義、⑪大智、⑫小智

のように2×6の形式です。日本の律令制もそうですが、極めて形式主義的です。

 日本の冠位は、隋や百済新羅よりも高句麗の制度に近いと言われますが、吐蕃の制度の方がより近く見えます。

 

高句麗

①太大兄、②大兄、③小兄、④対盧、⑤意侯奢、⑥烏拙、⑦太大使者、⑧大使者、⑨小使者、⑩褥奢、⑪翳属、⑫仙人(『隋書』)

百済

 ①佐平、②達率、③恩率、④徳率、⑤扞率、⑥奈率、⑦将徳、⑧施徳、⑨国徳、⑩李徳、⑪対徳、⑫文督、⑬武督、⑭佐軍、⑮振武、⑯克虞(『通典』)

新羅

 ①伊伐湌、②伊尺湌、③迊湌、④波珍湌、⑤大阿湌、⑥阿湌、⑦一吉湌、⑧沙湌、⑨級伐湌、⑩大奈麻、⑪奈麻、⑫大舎、⑬舎知、⑭吉士、⑮大烏、⑯小烏、⑰造位(『三国史記』)

 

 しかし、高句麗人が日本を訪れていることから考えると、日本が高句麗の情報を得るのは難しくなさそうですが、日本が吐蕃の情報を得られたのかは不明です。逆もまたしかり。

 吐蕃が国家として体裁を整えたのは、吐谷渾の影響が指摘されます。吐谷渾は、鮮卑慕容部から追放された慕容吐谷渾たちが青海地方に移り住み、遊牧を始めた集団です。また、高句麗は慕容部が作った前燕に降伏・臣従し、多大な影響を受けています。この2つの関係を考えると、吐蕃と日本の間に以下のような情報の伝搬ルートが考えられます。

  吐蕃←吐谷渾←慕容部→高句麗→日本

ただ、吐谷渾が慕容部を離れたのが3世紀なので、時代が違い過ぎる気がします。

 

 そう考えると、吐蕃も日本も地域大国として振る舞う為、中国に対しても独自性を持ち、より整理されて「進歩的」な制度を求めて古典を漁った結果、両者が似通っただけかもしれません。

 

[1] 山口瑞鳳チベット 上」東京大学出版会(1987)

[2] 山口瑞鳳チベット 下」東京大学出版会(1988)

[3] 大津透編「律令制研究入門」名著刊行会(2011)

五島清原氏

 松浦氏以前に五島列島を治めていたという清原氏についてメモしておきます。

 

 「青方文書」安貞二年(1228)三月十三日関東裁許状案では、平安時代末期の五島を巡る人間関係の言及があります。この裁許状案は、肥前国宇野御厨内小値賀嶋の地頭職の領有権を巡って峯持と山城固とが相論したときのものです。

 それによれば、源久の嫡男である源直は、五島列島内の小値賀嶋の本領主であった清原是包(これかね)の姪である清原三子(さんのこ)を妻にしていたが、仁平元年(1151)ごろ、清原是包が狼藉を好み、住民に煩をなし、平戸に入港していた高麗の船から荷物を奪う狼藉を働いたため、宇野御厨の領家から勘当され、所領所職を没収されたそうです。そして、清原是包の姪の夫である源直が弁済使に補任され、小値賀嶋浦部を知行することになったそうです。

 

 一方、「川上神社文書」承安3年(1173) 2月14日清原兼平畑地去渡状案によれば、肥前国在庁官人として清原兼弘の子に、権介清原真人兼平、その女に清原太子らがみえます。この清原氏と清原是包(これかね)の直接的関係は示されていませんが、兼(かね)を通字としていることから、同族ではないかと考えられているようです。中世の漢字の当て方はブレブレですから。

 しかし「青方文書」には是包にルビがふってあったんでしょうか?ちょっと気になるところです。

 

参考文献

[1] 瀬野精一郎「松浦党研究とその軌跡」青史出版(2010)

[2] 長崎県新魚目町教育委員会「魚目城 確認調査報告書」新魚目町文化財調査報告書第1集(1984)

ミナンカバウの王祖

 18世紀後半にマースデンがジョホール人から聴収したミナンカバウの王祖についてメモしておきます。

 

 イスカンダルは海に潜り、海の王と結婚したと言います。彼はそれにより三人の息子を設け、彼らが成人すると母は三人を父のもとに送り届けました。父は彼らに王冠を授け、彼らが落ち着くべき王国を探すように命じました。

 三人がシンガプラ海峡に着いたとき、三人は誰の頭に冠が合うのかを試すことにしました。長男がまず試みたましたが、冠を頭まで上げられませんでした。次男も同じでした。三男がもう少しの所で冠をかぶれそうなとき、冠が手から海に落ちてしまいました。そこで長男は西に行き、ルム(ローマ)の王に、次男は東に行き、中国の王になりました。三男はジョホールに留まり、ジョホールの王となりました。

 そのころプルチャ島(スマトラ島)はまだ海中から上がっていませんでした。島が現れ始めた時、ジョホール王は釣りをしていて、島がシ・カティムノという大蛇によって潰れそうになっているのを見ました。王はシマンダンギリという剣で大蛇を倒したが、剣には190の欠け目ができてしまいました。島はこうして現れることができ、王は島の火山の麓に行って住みつき、その子孫がミナンカバウの王となりました。

 

 マラッカの建国神話(マラッカ王国の王祖 - クランクラン)と似ています。ただ『ムラユ王統記』では次男がミナンカバウの王となりましたが、この民話では三男の血統がミナンカバウの王となっています。末子成功譚というやつでしょうか?

 ローマの王というのは、オスマン帝国のカリフだそうです。

 大蛇「シ・カティムノ」を倒した「シマンダンギリ」という剣ですが、「島ノ段切」みたいで何だか日本語っぽいですね。ミナンカバウのパガルユン王家は、家宝としてシマンダンギリを継承しているそうです。

 

参考文献

[1] 弘末雅士「東南アジアの建国神話」山川出版社(2003)

 

平戸松浦氏の始祖

 松浦一族の始祖は、延久元年(1069)に肥前国宇野御厨検校ならびに検非違使に任命され、摂津国渡辺庄から下松浦今福に下向土着した源久とされます。江戸時代に平戸松浦氏によって編纂された『松浦家世伝』では以下の流れになっています。

 

 松浦党の先祖は嵯峨天皇の第一皇子であり、仁明天皇の皇弟でもある河原左大臣源融より出て、その嫡男右大臣源光が後に勅定に背いたため、延喜九年(909)摂津渡辺庄に流され、その子孫が代々この地に土着して、渡辺姓を称することになりました。

 この渡辺氏の子孫の中に、源頼光に従って羅城門で妖気を払ったと伝えられる渡辺綱がおり、その息子の授が肥前国奈古屋に下向しました。その息子の泰は北面の武士として後三条天皇に仕えましたが、その息子の久が渡辺庄から今福に下向土着しました。

 

 松浦氏の系図は各種ありますが、平安時代までの系図は共通しており、各地に割拠した松浦一族は、いずれも源久およびその嫡男の源直の子孫とされています。

 しかし、藤原実資『小右記』には、源久が延久元年(1069)に下向する前に、肥前国関係で以下の人物が見られます。

肥前守源聞

肥前守源定(長和五年(1016)):肥前守就任の御礼言上

・前肥前介源知(寛仁三年(1019)):刀伊の入寇時に松浦地方で活躍

このことから、嵯峨源氏の子孫は、源久以前から国司や在庁官人として肥前国に下向土着していたと考えられています。そうした嵯峨源氏の子孫たちが松浦党の核となり、中央で名が知られている渡辺綱の子孫である久に先祖が集約されていったのではないか、と考えられています。

 

参考文献

[1] 瀬野精一郎「松浦党研究とその軌跡」青史出版(2010)

マラッカ王国の王祖

17世紀に編纂された『ムラユ王統記』に記載がある、マラッカ王国の王祖についてメモしておきます。

 

『ムラユ王統記』曰く、マケドニアアレクサンダー大王は東方へ遠征し、インドの王ラジャ・キダ・ヒンディと闘い、これを制しました。大王はラジャ・キダ・ヒンディの娘と結婚し、息子を設けました。

その子孫の一人がラジャ・チュランで、全インドを勢力下におさめ、さらに中国を征服するために東方へ遠征しました。ラジャ・チュランはシンガポールまで進軍しましたが、中国制服を阻止しようとした中国人から中国がまだ遥かに遠いことを聞き、中国遠征を取りやめました。その代わりにガラス箱を作らせ、それに入って海に潜ったところ、海の底には海中の王国があり、海の王に出会いました。ラジャ・チュランは自らが地上の王であることを告げると、海の王に迎えられ、その娘と結婚し、三人の息子を設けました。

成長した息子たちは、スマトラ島パレンバンに降臨し、パレンバンの首長ドゥマン・レバル・ダウンは、アレクサンダー大王の子孫を称する三人を迎えいれました。やがて噂を聞き付けた人々が表敬訪問し、長男はミナンカバウの王に、次男はタンジュンプラの王に迎えられました。三男はドゥマン・レバル・ダウンにパレンバンの王に迎えられ、スリ・トリ・ブアナ(三界(水界・地上界・天界)の王)と称しました。

 スリ・トリ・ブアナは海辺に町を作りたかったため、ドゥマン・レバル・ダウンの力を借りて、ビンタン島に渡りました。ビンタン島の女王はスリ・トリ・ブアナを養子として迎えました。スリ・トリ・ブアナは女王の力を借りて、さらに海峡を渡ってシンガポールに至ろうとしました。海は嵐が起きて荒れていましたが、海の王の孫であるスリ・トリ・ブアナは荒ぶる海を静め、無事にシンガポールへ上陸し、その地に町を作りました。その後、スリ・トリ・ブアナの曾孫がマラッカに移って作ったのがマラッカ王国だそうです。

 

水界・地上界要素は分かるんですが、天界要素は分かりません。

同じく海の王の子孫である神武天皇日本武尊に比べると、ホイホイ海を渡れていいですね。

 

参考文献

[1] 弘末雅士「東南アジアの建国神話」山川出版社(2003)

阿蘭陀通詞家25姓

阿蘭陀通詞の由緒諸としてまとまっている物は、

(1)阿蘭陀通詞由緒書 明和八年書上

(2)阿蘭陀通詞由緒書 享和二年書上

(3)長崎通詞由緒書

があり、『長崎県史』「史料編第四」に収まっています。この3つの由緒書からは15姓23家が拾えます。

①今村

②石橋

③名村

④吉雄

⑤楢林

⑥堀

⑦西

⑧茂

⑨加福

⑩本木

⑪志築

⑫馬田

⑬三島

⑭中山

⑮横山

 

『阿蘭陀通詞起請文』の署名には、上記15姓以外に6姓あります。

⑯馬場

⑰岩瀬

⑱末永

⑲小川

⑳森山

㉑荒木

 

『奉行蘭館長蘭通詞控』の署名には、上記21姓以外に4姓あります。

㉒富永

㉓中島

㉔立石

㉕品川

 

他にも、幕末期の諸記録から名前を引っ張ってくることはできますが、[1]ではこの25姓が由緒のある阿蘭陀通詞家としています。

 

 参考文献

[1] 片桐一男「阿蘭陀通詞の研究」吉川弘文館 (1985)

パサイ王国の王祖

13世紀、マレー半島の南にあるスマトラ島北部(マラッカより東)にパサイという港市国家が生まれました。この建国神話は、14世紀に原型ができたという『パサイ王国物語』に記載があります(現存する写本は18世紀のもの)。『パサイ王国物語』はマレー語による歴史叙述としては最古のものとなります。この『パサイ王国物語』の王祖についてメモしておきます。

 

昔々、北スマトラスムルランガに、ラジャ・ムハンマドとラジャ・アフマッドの兄弟がおりました。

ある日、ラジャ・ムハンマドは家来たちと森を切り開きにでかけました。すると、森の中に大きな竹がありました。その竹は、家来たちが刈っても刈ってもすぐに伸びてくる不思議な竹でした。ラジャ・ムハンマドがその竹を刈り取ったところ、竹株の真ん中に大きな筍があり、そこから可愛い女の子が出てきました。ラジャ・ムハンマドはその子を家に連れて帰り、「竹姫」と名づけ、大事に育てました。「竹姫」はすくすくと育ち、日ごとに可愛さをましていきました。

一方、ラジャ・アフマッドは森に狩りをしに出かけました。すると、森の奥で修業中の一人の老人に出会いました。その老人がただものでないと感じたラジャ・アフマッドは、兄のように自分も子供が欲しいことを伝えました。すると老人は、象に育てられている男の子がいることを話しました。話をきいたラジャ・アフマッドが待っていると、そこに大きな象が頭に男の子を乗せて、水浴びにやってきました。ラジャ・アフマッドは、いったん家に帰り、家来をつれて森にやって来て、象が水浴びをしているすきに男の子を奪い取ることができました。その子は見目麗しく、ムラ・ガジャと名付けられました。ラジャ・アフマッドは、将来ムラ・ガジャと「竹姫」を結婚させたいと、ラジャ・ムハンマドに申し入れました。

この象に育てられた男の子と竹姫は、成長すると結婚しました。その間に生まれたムラ・シルが、のちの初代パサイ王です。

 

参考文献[1]では「竹姫」となっています、「竹姫」はマレーシア語のWikipediaではPuteri Betung(Puteri:王女、Betung:竹)になっています。ムラ・ガジャ(Merah:赤、Gajah:象)のように固有名詞にしなかったのは、かぐや姫と重ねさせて興味を引くためでしょうか?

 

参考文献

[1] 弘末雅士「東南アジアの建国神話」山川出版社(2003)